令和5年(2023年)1月5日
一般社団法人日本POPサミット協会
会長 安達 昌人
明けましておめでとうございます。皆さん方には、お元気に新年を迎えられたこととお喜び申し上げます。
さて、今年の干支は「兎」ですが、今回は兎にちなんだ文章を綴ってみようと思います。
まず、干支の「卯」や「兎」の字体は、象形文字から転化したものと言われます。
「卯」は「同形のものを左右対称」に置いた象形で、同価値のものを交換する、左右に開いた門から入る、草木の芽吹きなどが想定され、十二支の第四位、兎の意味も表すようです。
「兎」はそのままウサギの象形で、今の文字からも想像できます。ぴょんと跳びはねるような姿態がイメージされます。
また、兎の数え方は一匹ではなく、一羽と数えます。一羽と数える由来は諸説ありますが、獣肉を食べることに宗教的な忌避感があった日本では、鳥の仲間だから食べて良いと、こじつけて呼んだという説が有力です。
日本ではこれまで、日常的に兎肉はあまり食用としませんが、フランス料理などでは人気の食材です。しかし、昔は日本でも食べていて、他にイノシシ肉などは「山鯨」と魚に譬えた隠語に変え、精が付く貴重な動物性タンパク質源としたようです。
ただし、今や人気のジビエでは、イノシシ、シカ、熊、そしてウサギと種類は豊富です。
兎が出てくる誰もが知る物語といえば「うさぎと亀」。実はイソップの寓話が元のようです。うさぎと亀が山の頂上を目指して競争しますが、途中でうさぎが居眠りしたため、亀が先にゴールして勝利を収めるという話。「どれだけ自分の能力に自信があっても、油断せずに物事に取り組むことが重要」という教訓です。
怖い話としては、おとぎ話の「かちかち山」。ある所にお爺さんとお婆さんが住んでいて、タヌキが畑でいたずらを繰り返すので、お爺さんがタヌキを捕獲して、「タヌキ汁」にしようとお婆さんに話します。お爺さんが出かけたすきに、タヌキはお婆さんをだまして殺し、「ばばあ汁」に料理してお爺さんをだまして食べさせます。ホラー映画もどきです。
相談を受けたウサギは復讐を企てます。ウサギはタヌキを芝刈りに誘い、背負った芝に後ろからボウボウと火を付けます。やけどを負ったタヌキに、唐辛子入りの味噌を薬だと言って背中に塗り、タヌキは痛みで苦しみます。さらに、ウサギはタヌキを漁に誘い、泥船に乗せて溺れさせます。助けを求めるタヌキをウサギは艪で沈めて溺死させ、復讐を果たします。
勧善懲悪のおとぎ話としては、あまりに残酷なストーリーです。一思いに成敗するのではなく、じわじわと陰湿なハラスメントによる懲罰です。
何故、タヌキはウサギを信頼し、疑わなかったのか。太宰治の小説「お伽草子」の中の「カチカチ山」では、タヌキがウサギに徹頭徹尾、惚れていたのだという、中年男の美少女への恋物語として描き、愚鈍なタヌキに心から同情しています。
この物語には、報復の連鎖が見られます。まず、生活を脅かすほどの被害でもないのに、爺さんがタヌキの命を奪い、食べてしまうという報復手段に出ますが、それが裏目に出て、最愛のお婆さんを失うばかりではなく、食べてしまうという残酷な悲劇を生み出します。
タヌキはお爺さんの意を受けたウサギの報復を受けることになります。もしも、お爺さんがタヌキを諭すだけにしていたら、このような報復の連鎖は生まれなかったでしょう。
この物語は、地球上から戦争がなくならない人間の社会を連想させます。戦争に使われる武器は、刀剣・弓矢から鉄砲、大砲、毒ガス、原爆へと次第に巨大化・狂暴化していきます。
ところで、兎は今やペットとして飼われますが、昔は畑に害を及ぼす野兎として見られたのでしょう。可愛いというより、ちょっと狡い動物とされています。
その物語が「因幡(いなば)の白兎」。「大国主命」という神様の国づくりにまつわる話の一部で、古事記にも描かれています。隠岐の島に住む兎が、因幡の国に渡るためにワニザメをだましてずらっと並ばせ、背中の上を渡って成功。しかし、いざ降り立とうという時に「お前たちは騙されたのさ」とからかったために、怒ったワニザメに毛皮をはぎ取られ、丸裸にされてしまう。通りかかった「八十神」といういたずら好きな兄弟の神様に「海水を浴びて、風と日光を浴びれば治る」と教えられ、その通りにして痛みはひどくなる一方です。
そこへ大国主命がやって来る。泣いている兎に「 真水で洗って、蒲(がま)の穂をつけておきなさい」と教えられ、するとたちまち傷が癒えて、毛も元通りになるという話です。
この神話の教え諭すところは、「不正直への戒め」と「思いやりの心を持っていれば、幸せな結末が待っている」ということでしょう。昔の説話には、常に教訓が伴うものです。
私事ですが、昔、経営・設計・デザインの研究所に勤めていたことがあり、年末になると、「お年玉付き年賀はがき」用に、その年の干支を描いた2種類ほどのデザインを作り、得意先の商店にチラシを送って宣伝しました。すると、洋品店、菓子店、飲食店などの商店の得意先が、自店の顧客名簿をもとに枚数を申し込みます。
当時のお年玉付き年賀はがきは、当選率が高く、しかもミシンや洗濯機など豪華賞品が目玉の人気媒体でした。商店にとっても、年賀状は顧客への一年の感謝の大切な挨拶状です。
こうして、流行りの筆ペンで顧客の宛名が書かれた年賀状が次々と届きます。所長が研修で各地を回って広報するので、その数は多く、一店平均200枚としても50店で1000枚ほどの年賀状が集まります。所員の中の二人がそれを持って、例えば「戌(いぬ)年」には、「忠犬ハチ公」(秋田犬)出身地の秋田県大館市の郵便局に運んで投函します。はがきには「今年の干支の○○にゆかりの○○町にて投函」という独自のスタンプを作って、押印します。
卯年の時には、兎を助けた大国主命を主神とする「出雲大社」の町の通便局に、私ともう一人が夜行列車で運びました。驚いたのは大量の年賀状を持ち込まれた郵便局です。今は省略されていますが、当時は年賀状一枚一枚に消印が押されました。しかし、局長はどこでも、快く引き受けてくれました。年賀状のはがきDMを届けた二人は、その町に泊り、ゆっくりと旅を楽しみます。いわば、ご褒美です。毎年、所員がペアを組んで順に各地へ旅しました。
チラシ・DMの紙媒体が宣伝物の主流だった時代の、アイデアマンだった所長の企画です。
時を経て、今やデジタルメディアの時代。所長ならどんな活用をするだろうか、と想像します。また、自分自身でもIT系で工夫を練ることは、実に楽しい時間だと考えています。