令和2年(2020年)5月3日
一般社団法人日本POPサミット協会
会 長 安達 昌人
・啄木の歌碑
「ふるさとの/訛りなつかし停車場の/人ごみの中に/そを聴きにゆく」(石川啄木)
啄木の代表歌集「一握の砂」(明治43年/1910年)の著名な句です。家族と一緒に東京に住む啄木は、生活が貧しくひっ迫していて、東北線が発着する上野駅の雑踏の中に、ふと漏れ聞こえてくる故郷の訛りを聴きに行き、ひと時の心を癒す、というのです。
啄木碑は、上野駅の15番ホームと16番線の間の車止め前に建立されています。東北新幹線上野乗り入れが実現した昭和60年(1985年)3月に設置され、直径120㎝の鋳鉄製の円盤に、明朝体の文字を入れたシンプルな歌碑です。
当時、啄木は24歳。故郷は岩手県ですが、ここでの「訛り」はもう少し広く、方言も含めた東北弁なのでしょう。
・方言とは
さて、「方言」とともに「訛り」という言葉が使われますが、その違いは何でしょうか。
「方言」は、ある特定地域だけで使われる「標準語」にはない言葉とされます。
例えば「しばれる」は「非常に寒い・凍える」の意味の北海道の方言です。「せからしか(うるさい、わずらわしい)」は博多弁。その他、各地にそれぞれの方言があります。
方言の特徴の一つとして、「方言周圏論」が挙げられます。中央で使われた言葉が、波紋のように周辺地域に広がり、その間に中央では次の新しい言葉が生まれて、同心円状に分布して行く。これは、柳田国男の「蝸牛考」(1930年)で唱えた学説で、辺境地域に中央の古語が残っていて、また、北と南の地域に類似した言葉が見られる現象を指摘しています。
例えば、松本清張の「砂の器」では、被害者が喋っていたと思われる津軽弁が、実は島根県の言葉であってそれが犯罪を解くカギとしているのは、方言の波紋説を活かしたものです。
・訛りとは
一方、「訛り」は「方言」の一部で、ある特定地域の「アクセント」「イントネーション」「発声法」が、その特性です。
「アクセント」は、一つの単語で強調して読む部分のことで(日本では「高低式」)、例えば標準語では「雨」は「あ」を高く「め」を低く発音しますが、関西式アクセントでは「め」が高く発音されます。テレビ・ラジオのアナウンサーは関東型アクセントで話します。
ちなみに、北原白秋作詞・梁田貞作曲「城ヶ島の雨」の「雨はふるぬる城ヶ島の磯に・・・」や、山田耕筰作曲「あかとんぼ」、滝廉太郎作曲「荒城の月」などは標準語アクセントに則っていますが、それが当時の作曲の規則とされたのでしょう。
「イントネーション」では、例えば私の生まれた越前(福井県)や加賀(石川県)地方では、語尾が揺れる特有の話し方で、韓国語の文節末に向かって高くなり最後に下がるイントネーションに似ています。しかも、関東式でも関西式でもない日本で数少ない「無アクセント」地帯とされます。韓国の標準語も無アクセントとされ、韓国の人の会話を聞くと北陸弁を聞くようで、古代朝鮮との交流の名残りではないかと考えていましたが、金沢大学教授・加藤和夫「方言の魅力と謎にせまる」によれば、単に無アクセントの類似のためとのことです。
発声法では、例えば東京下町では「シ」と「ヒ」、「ス」と「ツ」などが曖昧で、「コーヒー」を「コーシー」、「真っすぐ」を「マッツグ」と発音する人がいます。江戸落語では、職人が話す巻き舌の「べらんめえ口調」が聞かれます。今は少なくなりましたが、東北のズーズー弁は独自の発声で、昔はそれをコンプレックスに感じる人がいたのでしょう。
・標準語とは
標準語の普及が国家事業として推進されるようになったのは、明治時代に新政権が生まれ、国家意識が高まったことによります。当初は京阪の言葉か関東の言葉か、という課題もあったようですが、中央集権の置かれた関東の江戸語・東京語が基本となり、それも下町言葉ではなく、中流家庭の山の手言葉が採用されたようです。
明治5年(1872年)には学制が公布され、教科書は自由発行であったものが、同36年(1903年)には国定教科書となり、国語読本では標準語が使われます。
この「標準語」という言葉を作ったのは、岡倉天心の弟で日本の英語教育の先駆者とされた岡倉由三郎といわれます。その意図は「国語が地方語に分かれていては、思想の交換が十分に行われず、国民としての団結力が不足し、国家の統率力が減じる。そのためには言語の統一を図り、地方語の消滅のために良き方法をとらねばならない」(「国語統一問題」)と述べます。標準語教育は、このように近代国家の方針として積極的に推進されたものです。
・方言撲滅運動
こうした潮流に乗ずるように、強引な「方言撲滅運動」が起こり始めます。
その一つの例として、沖縄語(ウチナーグチ)の禁止があります。戦時色が濃くなっていた昭和15年(1940年)に、民芸運動の推進者の柳宗悦が、沖縄を訪れます。
そして、そこで見たものは、沖縄語を低いものとみなし、全県が一体となって半強制的に「標準語励行大運動」を進める姿でした。「一家そろって標準語」のポスターが貼り出され、学校で方言を使った子供には「方言札」を掛けさせるという懲罰までありました。
柳宗悦は猛然とこれを批判します。沖縄県民を侮辱するものであり、沖縄方言は日本の古語を多く含んで学術的にも貴重である、という理由からです。
しかし、当の沖縄では圧倒的に反発が多かったようです。何故か? 現地の人たちにとっては、当時の日本国家の方針に追随することが、最もふさわしい生きる道だったのでしょう。この方言廃止運動は、日本の各地に広まったようです。
しかし、第2次世界大戦後になって、こうした運動は廃止されます。中央集権的な特定の言葉を押し付け、地方の言葉・方言を軽視するのは民主主義に反すること、また、次々と生まれる新しい言葉(外来語も含む)や話し方に対して、これが標準語だというのは無理があるという観点です。
「標準語」という語彙に代わって使われているのが「共通語」です。全国で通用する言葉なら「共通語」で良いわけです。例えば「ウザイ(面倒だ、うっとおしい)」は東京・多摩地方の方言ですが、1960年代半ばから若者言葉として全国に広まり、国語辞典にも採用され、これらの新語・流行語も「共通語」の仲間入りです。
いわば「標準語」と「共通語」は同類ですが、かつての「標準語」は基準の色合いが強く、強制的なものであったが、「共通語」はこの2点の制約のない自由な言葉ということです。
そして今や「方言」も、日本の大切な文化財であり魅力的な言語という観点で、地元の方言研究も進んでいます。特に都会に住む地方出身の方にとっては、いわば、方言はふるさとの記憶を蘇らせる一種の母国語と言えます。
・方言でアピールするキャッチコピー
ところで、数年前に「キャッチコピーの作り方講座」で、広島県商工会女性部連合会に出講しました(一般社団法人・日本POPサミット協会より派遣)。
80人ほど集まられた女性部連合会の研修は、商業ばかりでなく、工業、建設業など業種はさまざま。講座では、キャッチコピーの意義や、コピー作成のテクニックなどのレクチャの後、各自が柔軟な感覚で、自店(社)のチラシ・パンフレット・POP広告などに活かせるコピーを作成し、グループで全紙に書き出して発表となり、消費者の関心を惹く傑作のキャッチコピーが続々と並びました。
その研修の一環として、全国商工会女性部連合会50周年記念誌に載せる、広島県を「方言でアピールするキャッチコピー」作成という課題が宿題とされ、研修後、数多くのキャッチコピーが寄せられました。 その一部を紹介すると、
・広島へ 来んさい 観んさい 寄りんさい
・ええ人に 会いに 来んさいや 広島県
・広島じゃけん ええ人に 会いに来んさい 見に来んさい
・広島の美人は 楽しいんじゃけー きてみんさいよ
・べっぴんさんが ぎょうさんおりんさるで!
・世界遺産2つあるけぇ 広島元気じゃけえ 皆集まろや
・平和公園も 宮島も あるけん 広島きてみんさい
・オバマ大統領もおいでんさった原爆ドームへ来てくれんさいや
そして、役員の方たちによる選考の結果、「平和公園も 宮島も あるけん 広島きてみんさい」が選ばれたとのことでした。連合会の担当者の方は、個人的には「広島じゃけん ええ人に 会いに来んさい 見に来んさい」が良いと思うと言われましたが、私も同感でした。
地域にあって、観光客を迎える土産品店などでは、POP広告のキャッチコピーに方言が大いに活かされて良いでしょう。しかし、どの地域でもしだいに方言が消えて行くのは惜しい現象です。方言と訛りは、貴重な地域文化としてぜひ残って欲しいと願うものです。