令和元年(2019年)5月3日
一般社団法人日本POPサミット協会
会長 安達昌人
令和元年のスタートです。新元号「令和」に、各界での成果の期待が高まっているのは良い状況です。ただし、当初は「令」の文字の解釈や、政府の「国書」の強調で戸惑いを覚える向きもあったようです。
原典となった歌の歌人・大伴旅人は中国の文献にも通じ、本歌取りの手法で漢詩の「令月」を歌に取り入れたものとされますが、「万葉集」自体は確かに国書として良いでしょう。
そこで今回は、旅人に関連して、万葉集について述べてみたいと思います。
名門の大伴旅人は高官位にあって鷹揚で、また風流人でもあり、万葉集ではほとんどが晩年の句ですが、その中にあって「酒を誉むる歌」13首は愉快です。
「しるしなき物を思わずば一杯(ひとつき)の濁れる酒を飲むべくあるらし(当てのない物思いをするよりも、一杯の濁り酒を飲んだ方がましだ)」とか、「あな醜(みにく)さかしらをすと酒飲まぬ人をよく見れば猿にかも似る(ああ見っともない、賢こぶって酒を飲まない人はよく見ると猿に似ている)」などと下戸には辛辣です。後の句は、大宰府の師(そち・長官)の旅人が、その配下にあり和歌の友であり、地味な家庭人でもあった山上憶良を宴席で揶揄したという説もあります。
万葉集は、よく知られているように、奈良時代末期(8世紀)に成立した日本最古の和歌集で、天皇、貴族から下級官人、防人、大道芸人、下層の庶民までさまざまな身分の人が詠んだ歌4,500首以上(約130年間にわたる)が集められ、まさに万葉の句で構成した興味尽きない歌集です。全20巻の内容は「相聞歌」(恋歌も含めて人を愛する歌)、「挽歌」(人の死を悼む歌)、「雑歌」(相聞歌・挽歌以外のすべての歌)に分かれます。
相聞歌の白眉といえば、先ずは、額田王(ぬかたのおおきみ)の恋歌です。
「茜(あかね)さす紫野ゆき標野(しめの)ゆき野守(のもり)は見ずや君が袖振る(こんな照り映える紫草の生える猟場で、袖などをお振りになると野守に見とがめられますよ)」。
天智天皇が群臣とともに、蒲生野の猟場で狩りをした時に、妃の額田王と天皇の弟の大海人皇子(天武天皇)の間に交わされた相聞歌。実はこの二人は若い時に結婚して子供までいたのに、天智天皇が見初めて強引に引き裂き、自分の妻にしたもの。しかしここでは悲壮感はなく、戯れ歌のような歌調です。「あ」という音で始まり「紫野ゆき標野ゆき」とリズミカルな歌い方にあるのでしょう。額田王はこの時代の類いまれなき美しい才媛のようです。
昔、滋賀県に出張した折、蒲生の郷と思われる辺りを探してさまよったことがあります。ちなみに、日本画家・安田靫彦の描いた「飛鳥の春の額田王」は切手にもなっています。
悲劇調といえば、私の育った越前の地に「味真野」という部落があり、万葉集の歌碑が立っています。天平の時代に、何かの刑罰でこの地に配流された歌人の中臣宅守(なかとみのやかもり)と、都に残された娶ったばかりの狭野茅上娘子(さののちがみのおとめ)との間に交わされた恋の贈答歌63首(万葉集巻十五)にその風情があります。
「君が行く道の長手を折りたたね焼き滅ぼさむ天(あめ)の火もがも(あなたが行く長い道のりを手繰り寄せて焼き尽くしてくれる天の火がほしい、そうすればあなたは都に留まれるだろうから)」と、凄まじい娘子の歌い振りです。
「帰りける人来たれりと言ひしかばほとほと死にき君かと思ひて(赦免されて都に帰って来た人がいると聞いて、危うく死にそうになった、あなたかと思って)」。この「ほとほと(ほとんど)」が、まさにオノマトペ(擬音語)として悲痛な音調を高めています。
万葉集の歌聖とされる柿本人麻呂は、宮廷お抱えの「挽歌」の名手でしたが、晩年には冷遇されて、石見(いわみ)の国の小吏として赴任します。官用で京に上る際の著名な歌。
「小竹(ささ)の葉はみやまもさやに騒げども我(あ)れは妹(いも)思ふ別れ来ぬれば(笹の葉はこの山に心乱すように風で鳴っているが、私は一心に妻を思いつめている、分かれて来たばかりなので)」。耳は自然のざわめきを聞き、心は妻への思いに集中している対比。この「さ」の音のリズムが深く沈静した声調となっています。
「防人の歌」(80数首・巻二十)の防人とは、北九州、壱岐、対馬の防備のための国境警備兵で、主に東国各地から徴発され、任期3年間ですが、帰りは自費の辛い旅で、故郷を再び見ることなく途中で朽ち果てた人も多かったとか。昭和の第二次大戦と重なります。
「韓衣(からころも)裾(すそ)に取り付き泣く子らを置きてぞ来(き)のや母(おも)なしにして(衣の裾に取り付いて泣く子供たちを置いてきた、母も亡くなっていないのに)」。任務は大君(天皇)のためという大義ですが、別れてきた妻や恋人、父母や子供への愛惜の情が胸を打ちます。こうした悲劇はどの階級、どの時代にも見られます。
斉明天皇の時代に謀反の罪に落としめられた有間皇子が、自剄させられる道中で詠んだ歌。
「家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕旅(たび)にしあれば椎(しい)の葉に盛る(家にあれば相応の食器に盛る食事を、今の自分は椎の葉に盛って食している)」。
「飯(いひ)」と「椎(しい)」、「盛る」の繰り返しのリズム感などに、自分の宿命を見つめる客観的な目があります。この他にも、政略によって命を落とす数多くの悲しい歴史のドラマが、歌の陰に隠されているのを見ることができます。
これらの歌とは一線を画し、万葉集の中にあって、明るく大らかに歌い上げるのが「東歌」(全230首・巻十四、巻二十)です。労働の一場面や、身近な動植物などの自然、恋の苦しさを歌っても健康な明るさ、など民衆の生活に密着した題材により、方言・俗語も交えて地方色豊かに歌われます。滑稽さもあり、民謡・歌謡からの採取とされる考察もあります。
「多摩川に曝(さら)す手作りさらさらに何そこの子のここだ愛(かな)しも(多摩川にさらす手織りの布のように、さらにさらにどうしてこの娘がこんなにひどく可愛いのかしら)」。代表的な東歌で、曝(さら)と川の流れのサラサラ、「さらさら」のつながりが掛詞となっています。擬音語の「さらさら」は「更に更に」の意味を持ち、「ここだ」は「こんなに」の方言とされます。東歌は素朴であって、心を和ませてくる異色の歌群です。
以上、万葉集をほんの少し見てみましたが、賀茂真淵論ずる「ますらをぶり」の歌風にあっても、掛詞やリズム感、オノマトペなど、日本の文芸独自の「言葉の遊び」の感性と技巧に溢れています。
私たちがキャッチコピーを考える場合にも、言葉の活かし方の面で、先人の詠んだ万葉集は、大いに参照できる貴重な文献だと、常々考えているものです。
以上